昭和五十七年七月一日 朝の御理解


御理解 第三十六節
 「日本国中のあらゆる神を皆信心すると云ふがそれは余りの信心  ぢゃ人に物を頼むにも一人に任すと其人が力を入れて世話をし  て呉れるが多くの人に頼めば相談にくれて物事捗らず大工を雇  うても棟梁が無ければならぬ草木でも心と云うたら一つぢゃ神  信心もこの一心を出すと直ぐおかげが受けられる」


昨夜の御礼信話会、実に有難い、非常に熱心な御信心の稽古をなさっておられる様子を、ま、一と月間にまとめて、と、いうような意味で皆さんお話をしておられましたが、中に皆さん御承知のように野村さん、朝昼晩お参りをされます。ま、大変忙しい仕事をなさっておられるのですけれども、やっぱり昼の研修の時も見えるし、朝の御祈念は勿論、昨日は、あヽした大きなお祭りを奉仕させて頂きましたから、皆さんもやっぱり御参拝でしたし、又、夜の信話会にはやっぱり、また参って見えておられます。野村さんもその一人でしたし、福岡の嘉朗さんなんか、あの福岡からですからね、やっぱり参っておられます。中でその、野村さんが発表しておられるのがこういう事を云っておられます。
親先生は、この世はあの世の為にある、と、仰せられる。本当に、あの世は永却の事だし、も、あの世の為に本気でこの世で信心を頂いてお徳を受けときゃならない。それには、お互いが生活の為に、おかげの為に信心をする、では、本当な事ではない。
信心の為の生活だ。それは、この世があの世の為にあるように、信心は、ね、生活の為にあるのではないね。生活は信心の為に有るんだ、と、いう表現をしておられました。私はそれを聞いて、成程、そうだなあ、と、思うんですけれども、私は、例えば、今日の御理解を、一心を出すと直ぐにおかげが受けられる、とおっしゃるには勿論、おかげを頂くという事の為にも、やっぱり、一心不乱がいります。乱れてはなりません。
あっちこっちに、乱れてはなりません。やっぱり、一心不乱の御祈念、ね、信心でなからにゃおかげも受けられません、けれども、直ぐにおかげが受けられる。と、いうような一心とは、ね。 いよいよ、いうならば、この世はあの世の為にある、と、いうような事がわかる信心は、おかげの為、生活の為にあるのではない、ね。生活は信心の為にあるんだという、こういう一心がでたら、間違いなしにおかげ。だからこそ、例えば、信心に心が、中心がおいてあるから、なら、朝の御祈念にも参る、あの、昨日の大祈願にもお参りをする、ま、いうならば、夜の信心信話会にも出てくる、と、いう事になるのぢゃないでしょうか。これは、一心をたてなければ出来るこっちゃない、ね。
信心の、教祖様は、信心の稽古という言葉を、お使いになっておられますね。これは、も、何事にもよらず、ですけれども、修行の伴わないものはない、と、思うです。けれども、この信心の稽古と、私は表現しておられるところが素晴らしいと思うですね。信心の修行、何か修行というと、水かからなんごた、断食せんならんような感じ。何か特別な、ま、特に日本人の宗教観念の中には、も、信心は修行があるから誰でんぢゃでけん、と、いったような観念がありますよね。けども、教祖様は、そういうふうにはおっしゃっておられない。稽古とおっしゃっておられる。だから、稽古そのものが修行なんです、ね。
それには、ね、いわゆる。生活の為に信心があるのではなくて、信心の為に生活がある、と。そういうすっきりとした頂き方が出来る稽古なんです。それは、も、そのまま、この世はあの世の為にあるんだ、と、いうような事もわかってくる、と、思うです。
昨日、私は、嘉朗さんの発表を聞かせて頂いても、やっぱ、それを感じました。いろいろ素晴らしいお話をしておられましたが、親先生が、○○は御理念による他ない、と、例えば、百姓は合楽理念による他ない。健康管理は合楽理念による他はない。商売は合楽理念による他ない、と、云われるが、ね、それはどういうような事だろう。私共、商売人、呉服屋さんですから、ね、呉服商を営なんでおりますが、呉服商を営みながらの、なら、商売を、ね、合楽理念に基づく以外はない、と、いう事はどういう事だろうか、と、色々わからせて頂く事は、もう、結局、ね、信心は世の為、人の為、と、こう云うが、私共商売人は、兎に角、お客さんが喜んで下さる、という事だと云ってます。もう、私、本当にそうだと、ま、相づちを打たせて頂いたんですけれども、ね。
嘉朗さん、そうばい、ち。御理念に基づく商売、というのはね、商売は、いうなら、合楽理念をもってする他ない、と云うて、ま、合楽理念による、ま、お商売ではかけ引き、と申しますが、合楽理念に基づくかけ引きとか、ま、上手な宣伝広告といったような事も、入ってくるにちがいないですけれども、それが、宣伝であれ、かけ引きであれ、です。
問題は、ね、お客さんが喜んで下さるという事、も、そうですね、商売は御理念に基づく以外はない。なら、それを煎じつめると、兎に角、お客さんが喜んでさえくれれば、という精神だ。
教祖様は、人が助かる事さえ出来れば、と仰ったが、私共、商売人はお客さんが喜んで下さえすりゃよい。
ここではよく、皆さんは云います、神様に喜んで頂くような信心。親先生に安心してもらえるような信心、喜んでもらうような信心。それを煎じつめたら、私はそれだと思うです。商売人ん方が御理念に基づく商売、商売人がです、も、いよいよお客さんに喜んでさえもらえば、という精神をもって、信心をさして頂く。
これは、なかなか、そこへ一心が出てくる、という事が、ただ、かんたんに出来るものぢゃない。様々に、あヽでもなかろうか、こうでもなかろうか、と、いろいろと、ま、お商売ならお商売の上に、ね、その繁昌の土台、繁昌の元になるものは、只、売れさえすりゃよい、儲かりさえすりゃよい、といったような事からでは、本当な繁昌にはつながらない。
 商売人は、どうしても繁昌のおかげを頂かんならん。 いつも借においたくられとる、と、いったような事から、ね、その借金ではない、その、それが、どんどん世の為、人の為にでもならせてもらえるおかげを頂かなならんが、ね、なら、その、世の為、人の為というその根本は、これは商売人はですよ、ね。お百姓さんはですよ健康管理はです、そこに一つの、も、まちがいのない焦点を置かなければ、ただ口で云うとるだけぢゃでけん。はあ○○は御理念に基づく以外にはない、というような事、ね。私は、嘉朗さんの、その、も、表現に関心しました、ね。 ま、結局、お客さんに喜んでもらえば、と、いう商売人になりたい。これが御理念に基づく商売だと私は思いまっす、ね。
その一心を立てるなら商売繁昌でしょう。その一心を立てるならばね。この世あの世を通うしてのお徳を頂けるでしょう。そういう構えが出来る時、これは、なら、嘉朗さんぢゃない、野村さんぢゃないけれども、ね。も、信心が一心、ね。も、昼、一家中で参ったけんで、朝参りもしとるから、も、今晩、御無礼したっちゃ、ま、よかごたるふうに、ような、ま、そういう計算にはなってこない、と思うですね。信心が芯になる、ね。それが、いうならば、もうからんならんから、とか、ね。生活の為に、いわゆる、おかげを受けんならん為に信心しておる、という事であったら、そういう打算にもなりましょうけれども、ね。信心の為に生活があるんだ、というような、ね。これがいよいよ、すっきりと本当のものになる、という事なんです、ね。もう、条件ぬきにして、お客さんが喜んでさえくだされば、も、それが、私は、ね、御理念による商売だ、と、いうふうに、ま、いうならば、嘉朗さんはそのように、ま、喝破されたわけです、ね、悟られたわけです。そこからの信心の稽古、いよいよ、今日から七月の月に入りましたが、七月の月は、いわゆる修行の月、夏期信行。私はこれを修行というより、やっぱり稽古、という事の方が、金光教的だと思いますね。
なら、どこに稽古の焦点をおくか、というと、商売人は商売に、ね。お百姓さんはお百姓さんとしての、私は、あの、はっきりとした理念の焦点というものがね、も、狂いのない、まちがいのない。昨日ある方がお参りをして見えた。ある商売を引き受けられた。まあ、向こうの無理も、まあ、聞いて譲り受けをされた。ところが店を、昨日一昨日ですかね、開店なっておられるわけですが、前の、その、人がいろんな道具なんかも、も、そのまま引き受けてるのに、これはその中に入っとらんぢゃった、これも持ってかえっていい、ち、云ってから何でも持って行きなさるそうです、ね。だから、その、お届けがあったけん、私は、も、本当に、そりゃおかげ頂いたの、ち、わたしは云いました。もう、いよいよ、その商売が繁昌せなならん。大きならなんらん。もう、いよいよ、その為には、大きい心を作らせて下さる事の働きが、もう始まっとるばい、ち。もう、持っていく、ち、いうもんは持って・・、それこそ有難く持たせてやんなさい、ち、云って申しました、ね。そげな約束ぢゃなかったですか、こげんとこまで持って行くなら、ち、云うて、ひとつも云うな、ち、私は、ね。
それこそ、こっちを豊かにして下さろう。大きくして下さろう、という働きが本当にわかったらね、あの御理念に基づいたら、そこんところがすっきりわかってっくるんです、ね。いうなら、なら、嘉朗さんの発表も、野村さんの発表も、云うておられる事が本当にすっきりしてきたら、そういう心が生まれてくるんです。どういうような場合であっても、も、いよいよ神様が大きうなれ大きうなれ、と、云うて下さってるなあ、と、云う事。ところがね、実際問題、そこに直面すると、日頃教えて頂いておっても、です、その、そこに理不尽を感じたり、ね、ここは一口云うとかな、と、いったような事になってくるんです、ね。御理念に基づいたら、いうならば、そういう理不尽な場合であっても、です。その、どっこい、ち、いうような頑張ってぢゃなくて、でうね。いやあ、こげんして、心を豊かに大きうして下さるんだなあ、と云うて、ま、も、それこそ、喜んで、さあどうぞ、どうぞ、で、持っていってもらって、心にひっかからんようになった時が、本当に大きくなった時しゃないでしょうか。その、おおきな心に大きなおかげが、も、絶対約束されるんです。
私は、今日は一心をたてる、と、いう事がです、そういう事の場合もです。それがすっきりと頂ける事の為に、その御理念による○○というものの、その焦点のまちがいないところに、一心が立てられて、ね、しかも、なら、修行といったような歯を食いしばったようなもんじゃなくてです、も、稽古です。それこそ、お花の稽古をするような、お茶の稽古でもさしてもらうような、いうなら、楽しいね。
それを、また、言葉を替える、なら、お茶でも花でも同じ、やっぱ修行という事になるかも知れませんね。けれども、やはり稽古という事になってまいりませんとね、喜び、楽しさというものが、修行ち云うと苦しいような感じが致しますね。その事を通して稽古さして頂くんだ、という、そういう一心。その一心も絶対のところ、間違いのないところ、おかげを頂くのも、やはり一心不乱、心を乱してはならなん、という一心、それが、いよいよお徳になる。あの世にも持って行けれる、というほどしの力のもお徳にもなる事の為のいうならば、そういう稽古をさせて頂いとる、と、いう事になったら、も、非常に信心が有難いもの、楽しいものになってくる、と思うんです、ね。
今日からの、いうなら、夏期信行も、もう、朝の御祈念に参っとるけん、参って・・・てんなんてん云わんでん、その為に、いわゆるいうならば、稽古ですし、修行ですから、ね。いよいよ一と月間の夏期信行を、ひとつそれぞれのところで、一つ全うしたいと思います。                                                 「 どうぞ 」